チェーホフ試論 ――チェーホフ序説の一部として――



2023-03-26 23:47:41
縦書きサンプル。{vt}~{/vt}で囲んだ部分が縦書きになり、下部に文字サイズコントローラがでる。

文字サイズ
文字組
フォントゴシック体明朝体



 チェーホフの人柄については、コロレンコ、クープリン、ブーニン、ゴーリキイの回想をはじめ、弟ミハイール、妻オリガ、スタニスラーフスキイなど芸術座の人びと、そのほか無数といっていいほどの遠近の知人による証言がある。その内容は一見驚くほど似通っていて、一つの調和あるチェーホフ像を浮びあがらせ、ほかのロシア作家に見られるような毀誉褒貶の分裂がない。コロレンコは二十七歳のチェーホフの風貌を描いて、やや上背のあるほうで線のくっきりした細おもての顔は智的であると同時に田舎青年の素朴さがあったと言い、中年から晩年へかけての彼に接したスタニスラーフスキイや友人メンシコフの話によると、人中での態度は控え目でむしろおどおどしているくらい、率直で上辺を飾らず絶えて美辞麗句を口にしない。さらにメンシコフによれば、彼は進取の気象とユーモアに富んだ生活人であり、潔癖な現実家であって、一さいのロマンチックなもの、形而上的なもの、センチメンタルなものを敵として、すこぶるイギリス型の紳士であった。――要するにこれらの証言を綜合してみると、ブーニンのいわゆる「稀れに見る美しい円満な力強い性格」の人を表象することができる。そしてそこには、ロシア的なものからの鋭い切断が感じられるのだ。
 実際チェーホフは、深刻ぶった顰しかめ面つらからも百姓的な粗野からも、歯ぐきを見せるような野卑な笑いからも、顔をそむけずにはいられないような神経の持ち主であった。
 ところでチェーホフの人および芸術に対する礼讃はまだまだつづく。――ある人にとっては彼は最も広い意味におけるヒューマニストであり、他の人にとっては彼の手紙にはいかにも芸術家らしい敏感な魂や人間愛が宿っており、或いはその作品を包んでいる客観のきびしさを[#「きびしさを」は底本では「さびしさを」]透して愛の光が射している。或いはその作品には「刻々に形成されてゆくもの」へのそこはかとない期待が漂っており、或いは「純粋無垢な唯美家であるとともに哀憐の使徒であり、人類に代って泣いてくれる人、乳母のようにわれわれをあやしてくれる人でもある。或いは大地のぬくもりであり、大地をうるおす春のぬか雨である……」といった調子で、チェーホフがもっとも苦手とした美辞麗句はめんめんと尽きないのである。



 だが一方、この聖チェーホフの像から円光を消すような証言も、眼をすえて見れば決して少くはない。
 まず中学や大学の級友たちの言葉によると、少年チェーホフは当時の中学生を熱狂させた問題や事件に対して冷淡であった。つまり附和雷同性がまったく無かった。謙遜であったが、それは要するに自己批判の過剰から来ており、商家の子弟に共通する性質でもあった。大学にはいってからも彼は孤独好きで、殆んど誰とも親交を結ばなかった。兄アレクサンドルが『アンクル・トム』を読んで泣かされたと書いてよこしたのに対し、十六歳のチェーホフはやや冷笑的な調子で、……このあいだ読み返したら、乾葡萄を食いすぎた時みたいな嫌な気持がした、と答えている。チェーホフの非感傷性の早期発生を物語る有力な証拠の一つだ。
 小説家セルゲーエンコは中学の同級生のうち、チェーホフの死ぬ時まで交際をつづけた唯一の人だが、その回想は結論的には、チェーホフをよく調和のとれた性格の人で、その言動には均衡と一致があったとしながら、しかも細部的に見ると、彼には特に人懐こいところも、特に人好きのするところも、友情も熱情もことごとく欠けていたことを、縷々るると述べている。友人は大勢いたが、その誰とも親友ではなかった。意志によって訓練され、まるでメトロノームに合せて行動しているような男だった。作品ににじみ出ている人情味を、決して彼自身が具えていたわけではない。また、チェーホフを褒めあげているメンシコフも、チェーホフが交際好きでありながら、胸襟を開くことにかけては自ら冷やかな限度のあったことを認めているし、夢中でチェーホフに惚れこんでいた情熱漢コロレンコでさえ、彼が完全に心の窓を開いたことのない代りには、誰にも一様の柔和さと親しさをもって接し、同時に恐らく無意識的な大きな興味をもって観察していたのであろうことを、やや寒々とした調子で述懐している。
 同様のことが、チェーホフを崇拝していたブーニンの場合にも言える。優しい追慕の情にあふれた彼の回想記にもやはり、チェーホフの愛想のいい応対には必ず一定の距離が感じられ、いくら話がはずんで来ても、或る節度を失わず、ついぞ心の奥を覗かせるような隙を見せたことがない、おそらく彼の生涯には熱烈な恋など一度もなかったろう、――と言った記述を含んでいるからである。この最後の想像も当っているらしい。メンシコフの回想によるとチェーホフは、……小説家にとって女心の知識は、彫刻家における人体の知識と同じだ、と語ったとあって、彼もやはり、結局チェーホフはツルゲーネフと同様、恋をしにくい男だったろうとつけ加えている。この比較は面白い。もっと本質的な方面についても、立派に通用する比較である。生まれも気質も時代も生活も作風も、およそ正反対と言っていいほどの二人ではあるが、おなじく「ロシアの西欧人」だった点で深く共通するものがある。
 愛や結婚についてのチェーホフの言葉を少し拾ってみよう。
 ――僕は結婚していないのが残念だ、せめて子供でもあればいいが――と二十八歳の手紙には書いてある。――恋ができたらいいがと思う、烈しい愛のないのはさびしい――と四年後の手紙は訴えている。勿論それもこれもいつもの冗談口調だが、さりとて単純な反語でもなく、そこに現われている憧憬の表情はかなり複雑だ。いわば愛情への直接の憧憬ではなくて、その憧憬への憧憬とでもいった妙に間接的なものが感じられる。それから数年後の彼は、――愛とは昔大きかった器官が退化した[#「退化した」は底本では「退死した」]遺物か、将来大きな器官に発達するものの細胞か、そのどちらかだ――と手帖に書きとめる。これには眉をひそめたいらだたしい表情が感じられる。また同じころ、――孤独が怖ければ結婚するな――と手帖に書きこむ。更にまた数年後、――恋とは、無いものが見えることだ、とメンシコフに語る。これは或る夜更け、クリミヤの海岸道を馬車に揺られながら、いきなり言いだした文句で、彼はそう言ったなり不機嫌そうに黙りこんでしまったとメンシコフは書いている。
 以上五つの独りごとめいた発言は、だいたい十年にわたって分布しているのだが、実はそのかげには二三人の女性の姿がある。たとえばその一人は、メリホヴォの隣人の娘さんでリーヂア・ミジーノヴァというのが本名だが、手紙ではリーカの愛称で通っている。二人の交際はチェーホフの三十歳ごろから、結婚の前の年まで、十年ほど続いているのだが、そのわりあい初めの一八九四年、リーヂアは声楽の勉強にパリに留学した。その年の秋、チェーホフも医者のすすめで南仏のニースへ転地療養に行っている。あとを追って行くような気持も幾分はあったのではないかと、一応は想像したいところだが、彼がパリへ出かけた形跡は見当らない。パリとニースの間の文通があるきりだ。その中でリーヂアは、チェーホフを冷たいと云って咎とがめている。チェーホフはそれに答えて、わざわざ言われるまでもない、と自認している。ほかの手紙を見ても、この調子を破るようなものは認められない。つまり十年を通じて熱量(いやむしろ冷量)に変化はないのだ。愛とチェーホフとの間隔は、終始一貫のびも縮みもしていない。永遠なる二本の平行線が、おそろしく単調な透視図を形づくっているだけだ。これが恋なら、よほどおかしな恋であるが、ほかの女性の場合でも、まず大同小異であった。そしてもしこの単調さに何か変化を与えているものがあるとすれば、それはチェーホフの眼の色だ。ただしそれも、ただその時どきの虫の居どころ一つで笑ったり怒ったりしているだけのことで、決して或る曲線として捉えられるような持続ある変化ではない。知人たちの話によると、日常のチェーホフは快活と憂鬱とが目まぐるしく交替する人だった。それがここにも顔を出しているにすぎない。それに騙されるとひどいことになる。
 チェーホフは四十一の年、芸術座の女優オリガ・クニッペルと結婚した。教会で式を挙げてしまうまで、母も妹も知らなかった。それどころか、その日の朝彼に会った弟のイ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンさえ、何ひとつ感づかなかったといえば、ちょっとロマンチックに聞えもしようが、真相は恐らくもっと冷めたいものだったろう。リーヂアへの心遣いのようなものも幾ぶんは働らいていたかもしれない。オリガは[#「オリガは」は底本では「オリガが」]三十一だった。舞台の役どころも『三人姉妹』のマーシャとか、『桜の園』のラネーフスカヤ夫人とか、『どん底』のナースチャとかいった風の渋い艶のものであって見れば、その人柄も大よその見当はつく。秋の愛の相手にはふさわしい女だったろう。だが、そんなオリガでさえ或る手紙のなかで、「情ぶかいやさしい心があるくせに、なぜそれをわざわざ硬くなさるのか」と、チェーホフの非情な面を咎めざるを得なかった。これでは秋の愛すら成り立つまい。結局オリガは彼にとって、その夥おびただしい手紙の呼びかけが示しているように、「驚くべき可愛い人」であり「母ちゃん」、「わがよき少女」であり、「わが魂の搾取者」であり、「愛する女優さん」、「可愛い仔犬」であり、「わが事務的な積極的な妻」であり……同時にその一さいであり、すなわちそのどれでもなかった、ということになるのではないか。彼の求めたのは、自分の晩年のための陽気な話相手にすぎなかったとさえ言えそうだ。
 要するに愛というものがチェーホフにとっては、来世とか不滅とかいうのと同じ空っぽな抽象概念にすぎず、それに対して彼の心が完全な不燃焼物であったことは、決して無根の想像ではないわけだ。のみならず、そんな空疏な概念に向っては、憧憬だって動こうはずはないので、あったものはたかだか、せめて憧憬なりとしてみたいという冷やかな試みにすぎない。この試みの空しさは彼には最初からわかりきっていたはずである。
 彼の冷めたさについては、興ざめな証拠をまだまだ幾らでも並べることができる。例の『イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ーノフ』を観て、ピストル自殺を遂げた青年があった。その親がスヴォーリンに手紙をよこした。これを聞いたチェーホフは、この芝居のことで貰ったほかの手紙と一緒にして置きたいから、それを送ってくれとスヴォーリンに頼んでいる。むろん例の冗談口だが、その隙間からうそ寒い風が吹く。またこんな話もある。知合いの婦人の若い燕か何かが死んだ。その男にはチェーホフも好意を持っていたので、悔くやみ状をその婦人へ出したいと思ったが、「自分たちもどうせ死ぬのだし、悔みの百まんだらも死人を生き返らせはしない」と思いなおして、まあよろしくその婦人に伝えてくれと第三者に頼むのである。この言いわけはむろん彼一流の照れかくしで、そんな中に彼の科学者的冷静だの、ショーペンハウアー流の厭世観だのを探ろうとしたところで無駄だ。ただ単にこれは冗談なのだ。こんな冗談を言わなければならなかったということ、そのチェーホフの当惑が問題なのだ。死への感動もないし、さりとて社交辞令も身につかぬとあっては、誠実な人間は黙りこむか冗談をいうしかないではないか。
 事実チェーホフは、しばしば不愛想に黙りこんだ。なかでもシチューキンという司祭の初対面の感想ははなはだ特徴的である。まるで当のチェーホフは留守で、誰かが代って相手をしてくれているような気がしたという。対坐している男の眼つきは冷やかで、言葉はぽつりぽつりと切れ、まるでかさかさだった。こんな男に、永年自分が愛読して来たような「人情味にあふれ、もの悲しい歌声に似た」美しい物語の書けるはずはない、と司祭は心の中で絶叫せざるを得なかった。だが、こうしたチェーホフの沈黙を裏切るものは、二千通をこす尨大ぼうだいな手紙である。ドストエーフスキイも手紙の大家であった。熱っぽい緊張と狂おしい感動とにつらぬかれたこの巨匠の手紙は、よしんば彼が事実を曲げ嘘をつきたいという情熱に駆られた瞬間にあってすら、その情熱の烈しさそのもののうちに紛れもなく彼の全人格を投射するという不思議な真実性と信憑性しんぴょうせいをもっている。ところがチェーホフの場合はまるで違う。彼は嘘をつきたいなどという洒落しゃれた情熱には一度だって襲われたことはあるまいし、間違っても嘘だけはつけぬ男であった。にもかかわらず、この素朴なほど誠実な男がまるで日常の放談さながらのあけっぱなしな調子で、独特のユーモアをふんだんに交えながら、終始軽快なアレグロのテンポで書き流してゆく手紙のなかに、当人の正体を捕えることは案外なほどむずかしいのだ。そこで彼は、自分について語ることを避けなどしていない。むしろ率直に自作の構想や進行状態を語り、自分のあけすけな意見を信仰問題についてさえ開陳して憚らなかった。愚痴や泣言の類も少いどころではない。自分の日常の動静に至っては、彼の報告は驚くほど精細をきわめてすらいる。
 ところが、そこでコンマがはいる。少し意地悪な眼になって、彼の手紙の要所要所を注意してみると、話が自分の急所にふれそうになる度びごとに、巧みにそれを引っぱずす彼を発見することができるはずだ。こうした話題転換は随処に見られるが、一例を挙げれば、『六号室』を読んだスヴォーリンが、何か物足りない感じがすると言って来たのに対してチェーホフは、「それはアルコール分の不足だ」という頗る的確な表現を与えるのだが、そこでくるりと身をかわす。まあ『六号室』や僕自身のことはお預りにして、ひとつ一般問題を論じよう。その方がずっと面白い……といった筆法である。さてそれから、いかに現代が理想の黄昏であり空虚な時代であるかについて、軽快無比のアレグロ調の雄弁が際限もなく展開するのだ。だが実のところ、これはまたしても沈黙の代用の饒舌じょうぜつではないか。
 と言って、チェーホフが嘘をついていることにならない。彼としてはあくまで正論であり、信念ですらあったに違いない。問題はだから彼の誠意の欠乏などになるのではなく、むしろ誠意の過剰にあるのだ。言いたいこと乃至言うべきことは、最初の二言三言で済んでおり、あとは不愛想な沈黙があるだけだ。しかしチェーホフは、自分が冷たく見えることを怖れる。相手を退屈させることを怖れ、自分の退屈ももちろん怖い。この窮地に追いつめられたチェーホフは、頗る困難でもあれば嘘をつく可能性も多分にある自己という主題をたくみに避けて、誠実で安全な一般論に突入するのだ。――自分の破産を白状するのは容易なことじゃない。まっ正直にやるのは辛い。おそろしく辛い。だから僕は黙っていたのだ。ねがわくば僕のなめたような苦しみを、君もなめずに済みますように……と、『無名氏の話』の主人公は言う。この言葉はチェーホフの手紙についても、有力な自註の役割をはたすだろう。
 これで、沈黙の一形式としての彼のお喋りな手紙の意味が、おおよそ明らかになったと思う。それは正にニーチェの言うように、自己をかくす器であった。従ってまた、チェーホフの正体をさがすためには頗すこぶる恰好な場所でもあるわけだ。実際チェーホフの生活は、ほかならぬこの無駄話そのものの中にみなぎり溢れているのだ。

4
いいね!