栃の実
泉鏡花
朝六つの橋を、その
明方に渡った――この橋のある
処は、いま
麻生津という里である。それから三里ばかりで
武生に着いた。みちみち
可懐い
白山にわかれ、
日野ヶ
峰に迎えられ、やがて、越前の
御嶽の
山懐に
抱かれた事はいうまでもなかろう。――武生は昔の
府中である。
その年は八月中旬、
近江、越前の
国境に
凄じい
山嘯の
洪水があって、いつも
敦賀――
其処から汽車が通じていた――へ
行く順路の、
春日野峠を越えて、
大良、
大日枝、
山岨を
断崕の海に沿う
新道は、崖くずれのために、全く道の
塞った事は、もう金沢を立つ時から分っていた。
前夜、福井に一泊して、その
朝六つ
橋、麻生津を、まだ山かつらに月影を結ぶ頃、霧の中を
俥で過ぎて、九時頃武生に着いたのであった。――誰もいう……
此処は水の美しい、女のきれいな処である。
柳屋の柳の陰に、
門走る
谿河の
流に立つ姿は、まだ朝霧をそのままの
萩にも
女郎花にも較べらるる。が、それどころではない。
前途のきづかわしさは、
俥もこの
宿で
留まって、あとの山路は、その、いずれに向っても、もはや通じないと言うのである。
茶店の
縁に腰を掛けて、渋茶を飲みながら評議をした。……春日野の
新道一条、
勿論不可い。
湯の
尾峠にかかる山越え、それも
覚束ない。ただ道は最も奥で、山は
就中深いが、
栃木峠から
中の
河内は越せそうである。それには一週間ばかり
以来、郵便物が通ずると言うのを聞くさえ、
雁の
初だよりで、
古の名将、また英雄が、涙に、
誉に、
屍を
埋め、名を残した、あの、山また山、また山の山路を、
重る峠を、
一羽でとぶか、と
袖をしめ、
襟を合わせた。
山霊に対して、小さな
身体は、既に茶店の屋根を
覗く、
御嶽の
顋に呑まれていたのであった。
「気をつけておいでなせえましよ。」……
畷は荒れて、
洪水に松の並木も倒れた。ただ
畔のような
街道端まで、福井の車夫は、笠を手にして見送りつつ、われさえ指す
方を知らぬ
状ながら、
式ばかり日にやけた黒い手を挙げて、
白雲の
前途を指した。
秋のはじめの、空は晴れつつ、熱い雲のみ往来して、田に立つ人の影もない。稲も、
畠も、
夥多しい洪水のあとである。
道を切って、街道を横に瀬をつくる、
流に迷って、根こそぎ倒れた並木の松を、丸木橋とよりは
筏に
蹈んで、心細さに見返ると、
車夫はなお
手廂して立っていた。
翼をいためた
燕の、ひとり
地ずれに
辿るのを、あわれがって、去りあえず見送っていたのであろう。
たださえ
行悩むのに、秋暑しという言葉は、残暑の
酷しさより身にこたえる。また汗の目に、野山の赤いまで暑かった。
洪水には荒れても、
稲葉の色、青菜の影ばかりはあろうと思うのに、あの
勝山とは、まるで方角が違うものを、右も左も、泥の乾いた
煙草畑で、
喘ぐ息さえ舌に
辛い。
祖母が縫ってくれた
鞄代用の
更紗の袋を、
斜っかいに掛けたばかり、身は軽いが、そのかわり
洋傘の日影も持たぬ。
紅葉先生は、その洋傘が好きでなかった。
遮らなければならない
日射は、
扇子を
翳されたものである。従って、一門の
誰かれが、
大概洋傘を意に介しない。連れて
不忍の
蓮見から、
入谷の朝顔などというみぎりは、一杯のんだ
片頬の日影に、揃って
扇子をかざしたのである。せずともいい真似をして。……勿論、
蚊を、いや、
蚊帳を
曲して飲むほどのものが、
歩行くに日よけをするわけはない。蚊帳の方は、まだしかし人ぎきも
憚るが、洋傘の方は
大威張で持たずに済んだ。
神楽坂辺をのすのには、なるほど(なし)で
以て事は済むのだけれども、この道中には困却した。あまつさえ……その年は
何処も陽気が悪かったので、私は腹を痛めていた。祝儀らしい真似もしない悲しさには、
柔い
粥とも
誂えかねて、朝立った福井の
旅籠で、むれ
際の飯を少しばかり。しくしく下腹の痛む
処へ、
洪水のあとの
乾旱は
真にこたえた。
鳥打帽の
皺びた上へ
手拭の頬かむりぐらいでは
追着かない、早や十月の声を聞いていたから、護身用の
扇子も持たぬ。
路傍に
藪はあっても、竹を
挫き、枝を折るほどの
勢もないから、
玉江の
蘆は名のみ聞く、……湯のような
浅沼の蘆を
折取って、くるくるとまわしても、何、秋風が吹くものか。
が、一刻も早く東京へ――
唯その
憧憬に、山も見ず、雲も見ず、
無二無三に道を急いで、忘れもしない、村の名の
虎杖に着いた時は、
杖という字に
縋りたい
思がした。――近頃は多く
板取と書くのを見る。その頃、
藁家の
軒札には虎杖村と書いてあった。
ふと、軒に乾した煙草の葉と、
蕃椒の間に、
山駕籠の
煤けたのが一挺
掛った藁家を見て、
朽縁へ
と掛けた。「
小父さんもう
歩行けない。見なさる通りの
書生坊で、相当、お駄賃もあげられないけれど、
中の
河内まで何とかして
駕籠の都合は出来ないでしょうか。」「さればの。」耳にかけた
輪数珠を
外すと、
木綿小紋のちゃんちゃん子、
経肩衣とかいって、紋の着いた袖なしを――外は暑いがもう秋だ――もっくりと着込んで、
裏納戸の
濡縁に
胡坐かいて、
横背戸に倒れたまま
真紅の花の小さくなった、
鳳仙花の
叢を
視めながら、
煙管を
横銜えにしていた
親仁が、
一膝ずるりと
摺って出て、「
一肩遣っても進じょうがの、
対手を一つ聞かなくては、のう。」「お願いです、
身体もわるし、……実に弱りました。」「待たっせえ、何とかすべい。」お仏壇へ数珠を置くと、えいこらと立って、土間の
足半を
突掛けた。五十の上だが、しゃんとした足つきで、
石道を向うへ切って、
樗の花が
咲重りつつ、屋根ぐるみ
引傾いた、日陰の小屋へ
潜るように入った、が、今度は経肩衣を
引脱いで、小脇に絞って取って返した。「
対手も丁度
可かったで。」一人で
駕籠を
下すのが、腰もしゃんと楽なもので。――相棒の肩も広い、
年紀も少し
少いのは、早や
支度をして、駕籠の
荷棒を、えッしと担ぎ、片手に――はじめて
視た――絵で知ったほぼ想像のつく大きな
蓑虫を
提げて出て来たのである。「ああ、御苦労様――
松明ですか。」「えい、松明でゃ。」「途中、山路で日が暮れますか。」「何、帰りの支度でゃ、
夜嵐で
提灯は持たねえもんだで。」中の河内までは、
往還六里余と聞く。――駕籠は夜をかけて引返すのである。
留守に念も置かないで、そのまま駕籠を
舁出した。「おお、あんばいが悪いだね、冷えてはなんめえ。」
樹立の暗くなった時、一度
下して、二人して、二人が夜道の用意をした、どんつくの
半纏を駕籠の屋根につけたのを、敷かせて、一枚。一枚、背中に
当がって、
情に包んでくれたのである。
見上ぐる山の
巌膚から、清水は雨に
滴って、底知れぬ谷暗く、風は
梢に渡りつつ、水は
蜘蛛手に
岨を走って、駕籠は縦になって、雲を仰ぐ。
前棒の
親仁が、「この
一山の、見さっせえ、残らず
栃の木の大木でゃ。皆
五抱え、
七抱えじゃ。」「
森々としたもんでがんしょうが。」と
後棒が
言を添える。「いかな日にも、はあ、真夏の炎天にも、この森で一度雨の降らぬ事はねえのでの。」清水の
雫かつ迫り、
藍縞の
袷の
袖も、森林の陰に
墨染して、
襟はおのずから寒かった。――「
加州家の御先祖が、今の
武生の城にござらしった時から、
斧入れずでの。どういうものか、はい、御維新前まで、越前の
中で、
此処一山は、
加賀領でござったよ――お前様、なつかしかんべい。」「いや、僕は
些とでも早く東京へ
行きたいんだよ。」「お若いで、えらい元気じゃの。……はいよ。」「おいよ。」と声を合わせて、
道割の小滝を飛んだ。
私は駕籠の手に
確と
縋った。
草に巨人の足跡の如き、
沓形の峯の
平地へ出た。
巒々相迫った、かすかな空は、清朗にして、
明碧である。
山気の中に優しい声して、「お掛けなさいましな。」軒は
巌を削れる如く、
棟広く柱黒き峯の茶屋に、木の根のくりぬきの火鉢を据えて、
畳二畳にも余りなん、大熊の皮を敷いた
彼方に、出迎えた、むすび髪の色白な若い娘は、
唯見ると活けるその熊の背に、片膝して腰を掛けた、
奇しき
山媛の
風情があった。
袖も
靡く。……山嵐
颯として、白い雲は、その
黒髪の
肩越に、裏座敷の崖の
欄干に掛って、水の落つる如く、
千仭の谷へ流れた。
その裏座敷に、二人一組、別に一人、一人は
旅商人、二人は官吏らしい旅客がいて憩った。いずれも、
柳ヶ
瀬から、中の河内
越して、武生へ
下る途中なのである。
横づけの駕籠を
覗いて、親仁が、「お前さま、おだるけりゃ、お茶を取って進ぜますで。」「いいえ出ますから。」
娘が
塗盆に茶をのせて、「あの、
栃の
餅、あがりますか。」「駕籠屋さんたちにもどうぞ。」「はい。」――
其処に三人の客にも酒はない。皆栃の実の餅の盆を控えていた。
娘の色の
白妙に、
折敷の餅は
渋ながら、五ツ、茶の花のように咲いた。が、私はやっぱり腹が痛んだ。
勘定の時に、それを言って
断った。――「うまくないもののように、皆残して済みません。」ああ、娘は、茶碗を
白湯に汲みかえて、熊の
胆をくれたのである。
私は、じっと
視て、そしてのんだ。
栃の餅を包んで
差寄せた。「堅くなりましょうけれど、……あの、もう二度とお通りにはなりません。こんな山奥の、おはなしばかり、お
土産に。――この実を入れて
搗きますのです、あの、餅よりこれを、お土産に。」と、めりんすの帯の合せ目から、ことりと拾って、白い
掌で、こなたに渡した。
小さな
鶏卵の、軽く
角を取って
扁めて、
薄漆を掛けたような、
艶やかな堅い実である。
すかすと、きめに、うすもみじの影が
映る。
私はいつまでも持っている。
手箪笥の
抽斗深く、時々
思出して手に
据えると、
殻の
裡で、
優しい
音がする。